中山道大井宿・料理旅館いち川の歴史

料理旅館いち川・中山道「角屋」を継いで360年

中山道大井宿「角屋」のなりたち

当家初代市川左右衛門は寛永年代旅籠屋「角屋」を現在地にて始めました。
爾来400年地域の皆様方のご支援のお陰をもって、今日まで営業を続けて来ることが出来ました。
角屋の屋号も明治初年に「旅館いち川」に更めております。

建物は天明7年の大井宿大火の後、再建され、玄関ロビーに掲げてあります写真にあるものが、昭和10年迄続いて参りました。木曽路特有の出格子二階建ての建物で、右方に高費用の立派な門がありました。江戸方から来て3つめの枡型のつき当たりに東を向いて建っていました、それで「角屋」と申しました。
私の父が昭和初期から終戦前まで20年間、大井町長をやっていまして、その間、桝形道路は不便であるということで、市川家と隣の古屋家の所有地を提供して、大井橋まで直線の道路を昭和10年に開通しました。 誠に残念でしたが、古い角屋の建物は全部取りこわしとなり、現在の建物はそれ以後のものばかりとなりました。

庭にあります、赤松と錦松は昔からあるものですが、古いことを全て知っているわけですが、それを聞くすべもございません。

赤松と錦松

                                  当家14代 市川信平記す



中山道大井宿とは

歌川広重「木曽街道六十九次・大井」
歌川広重「木曽街道六十九次・大井」

大井宿は中山道69の内江戸から数えて46番目の宿場です。
江戸時代になって大井宿は、中山道の宿場 として栄えました。特にここから分かれています下街道は、起伏が少なく、名古屋の近道で、伊勢参宮の客も よく利用しました。
坂をおりて宿内に入りますと、道がくるくる曲がって、わずか七町のうち六ヶ所も枡型を 作っています。これは築城古談によりますと、ここに城下町を作る予定であったとあります。
町並みは、横町、 本町、竪町、茶屋町、橋場と続きます。当時は町中の道も割合に広く、全部の家が板葺きでした。宿の人人は 農業と商業を兼ねた者が多く商売も繁盛しました。
(岐阜県歴史資料保存協会会長太田三郎氏『濃飛の古道』より)


旅籠屋と木賃宿

旧・旅館いち川
旅籠屋 角屋 (明治初年撮影)

旅籠屋とは、江戸時代旅人を泊め食事を供することを業とした家をいいます。
江戸時代の街道には宿場ごとに多くの旅籠屋があり、武士や一般庶民の泊り客で賑わいました。

大井宿は、中山道屈指の宿場町で旅籠屋も多く、天保14年(1843)で41軒でした。これは美濃16宿中最高です。中山道各宿の平均旅籠数が27.1軒ですから、大井宿のにぎわいが想像できます。

写真は大井宿の旅籠屋「角屋」の正面ですが、木曽路に多い出桁造となり、取外しのできる格子戸がはまり、軒には講札が多くかけてあります。
その右側は特殊な方の出入り門となっていました。

角屋(現・旅館いち川)は建物こそ新しくなっていますが、現在も江戸時代の代表的な旅籠屋を大井宿中唯一続けています。

中山道大井宿案内図

大井宿地図
@菅原神社
江戸時代の初め、慶長年間の創建といわれ、学問や商売繁盛などの神様として敬われています。
A大井宿石仏群
宿場のはずれに石仏を建て、悪病やはやり病が入るのを防ぎ、宿場の繁栄を祈りました。徳本和尚の南無阿彌陀仏の 碑やたん切地蔵など、めずらしい石仏が並んでいます。
B高札場跡
江戸幕府の定めを知らせる掲示板。お上のご威光そのままに庶民を見下ろすかっこうに高札が掲げられています。
C延寿院横楽師
戦国の頃ここへ移り住み、家内安全、病気平癒を祈る人が多かった。本尊の薬師如来は行基の作といわれています。
D茶屋
旅人を泊めてはいけないと定めてありました。お茶を出し、あま酒・あじご飯・柿栗・駄菓子・ぞうり・わらじなどを売っていました。「みたけ屋」は特に餅がおいしく「餅屋勘兵衛」といわれていました。
E毘沙門天
大井城の北の守りとして祀ったもので、その後位置がかわり現在の場所に移りました。
F長国寺
行基が創建し根津甚平が再興したといわれる曹洞宗の禅寺です。西行法師葬送の寺ともいわれ、西行の木像は兵火で焼失したものの、位牌は現在も残っています。
G大井宿本陣跡
大名など身分が高い人が泊る家です。昭和二十二年の火災で上段の間のある建物は焼失しましたが、表門や庭園、老松は昔のままです。
H内城稲荷
大井の城の守護神であったといわれ社前のひょうたん形の石は、武将吉村源斎が伊勢の川原でひろい「たばこ」の根じめに使っていたものといいます。
I庄屋の家
大井村には井口・林・宮原・高木・村松・勝野・佐伯・古屋などの庄屋がありました。
J桝型跡
幕府のお達しにより、宿場の道をわざわざ直角に曲げてつくった交通の要害です。宿内の六か所で折れ曲っておりこんなに数が多く整然としているのは道中一つです。
K大井橋(大橋・中島橋)
巾二間・長さ二十三間のらんかん付の木橋でした。それより前は川の中央に石で小島をつくり、橋を二つかけていました。そのため「中島橋」といいました。